ポストモダンと散歩中

長くなりがち。

長期的なキャリアプランを立てることは必要か

来年、新しい環境で生活が始まる予定であることを受けて、長期的な計画を立てようとして、やめた。

ここ数年を振り返るだけでも10代の頃に思い描いていた将来とはかけ離れた道を進んできた。これからのことなんて計画しても無駄なのだと思う。三年後にどこにいて何をしているかなんて分からない。大学院に入ってからは、研究者になるという一見ゴールのようなものが見つかって、それに身を委ねていればよかったので楽だった。何度もそれを口に出していると自分のアイデンティティが固まっていき、ある日ふと気付くと身動きが取れなくなっていた。

年月が経ち、今まで知らなかった物事やアイデアに触れ、自分の適性はおそらくアカデミア以外にもあることに気付いた。大学の封建的で閉鎖的なところがたまらなく耐えられなくなってもいた。私はここではやっていけない、と薄々分かっていた。でも研究者になるという目標は既に私のアイデンティティの一部になっていて、「研究者になる私」以外の私はすぐには形成できなかった。

 

結局、あるきっかけがあり、覚悟ができないまま私は研究者トラックを降りた。

 

苦しんだ。

 

今年の年始に亡くなった社会学ウルリッヒ・ベックは、現代社会において、個人は絶対的な規範がないまま個々の人生に関わる選択をし、その結果に責任を持つことを強いられていると指摘した。同様に、イギリスの社会学アンソニー・ギデンズは、文化的伝統の影響力が弱まった現代では、自発的に自分のアイデンティティを構築することが各個人のライフ・プロジェクトであると論じた。

 

私は自由だ。何をしてもいいし、何だってできる。ただし、自分の責任において。

「研究者になる」というアイデンティティが崩壊したあと、この自由が重かった。誰か私が今後どうしていいか決めてくれたらいいのに、そうしたらそれに唯々諾々と従って平和に生きていくのに、と本気で思った。

 

20代後半になって初めていわゆる就職活動をして、めまいがしそうになった。多くの同年代の若者が限られた期間に一斉に同じ行動をとる日本の就職活動は、一見きわめて画一的で強い規範が存在しているように見えるし、自分が体験するまで事実そうなのだと思っていた。しかし、実際にその輪に入ってみると、ベックとギデンズの言う世界が、凝縮されたものがそこにはあった。

自己分析にはじまり、受ける業界と会社の選別、実務能力とは無関係の人格や個人的な性質・経験が問われる面接、受かった中から「自分に一番合う会社」を選び出す作業。ギデンズはアイデンティティ構築は再帰的なプロセスだと言っている。つまり、アイデンティティは、個人が自分と自分を取り巻く環境をすりあわせる内省のプロセスによって構築されるのである。就職活動においては、各個人が就職活動を進めて行く上でトライアル&エラーを繰り返しながら最適化されたアイデンティティを構築し、多くの場合明確な指針のないまま、個々の基準でリスクをとりながら自分の将来を選択していく。そしてそれが、全て自分の責任において行われる。現代厳しい。

 

現代社会の特徴を強く反映した面接の中でも、最も象徴的だと思ったのは「○年後の自己像を教えて下さい」という質問である。まさか「わかんねえよ」と言うわけにもいかないので、無難な答えを用意した。この質問は非常に重要かつ無意味だ。この質問が重要である理由は、この質問が主体としての個人を前提としたものだからである。キャリアは主体的に選択の結果として切り開かれるものであり、○年後どうなっているかは自分次第という自己責任の意識が、この質問には組み込まれている。同時に、この質問が無意味である理由は、現代社会が非常に不確実であるためである。どんなにしっかりした将来のビジョンを持っていても、世の中自分の思うようにいくものではないし、そもそも現時点の判断は現時点で持っている情報のみを元に下されるのであって、新たな情報が加味された将来の判断が、現時点の判断と同じであるとは限らない。「○年後の自己像」なんて友達と酒の席で語り合う分には結構だけれど、就職面接のなかで重要な情報として処理される意味が分からない。

 

思えば、私は10代の頃から割と行き当たりばったりの進路を経てきた。そのときそのときの状況でそのときベストだと思ったことをやってきた。大学院に入って研究者になりたいと考えるまで、長期的な計画を意識することはなかった。もちろん、大学に行こうとか、貯金をしようとかいう広い意味での長期的視野はある程度必要だと思う。でも、○○大学に行って、○○という会社に就職して、○歳で結婚して、○歳で○の資格を取って、といった性質の長期的計画は、仮に実現可能だとしても人生の幅を狭めるし、大きなストレスとなると思う。ある程度先のことが決まっていた方が安心するという人もいるかもしれないけれど、それもせいぜい2~3年くらいのものではないだろうか。

 

自分の一貫性のないこれまでのキャリアが必ずしもよいとは思っていない。デメリットもある。人に理解されにくく、専門性が低いと見られることも多い。それでも、来た球を打つという柔軟性は身に付いた。「研究者になりたかった私」は「研究者になりたかったけど他の道を選んだ私」にジョブチェンジした。一度決めたことだからとそれに固執してしまった結果、それが叶わなくなったときひどく苦しんだ。けれど、結局この進路変更も、行き当たりばったりの進路選択の結果なのである。

 

長期的なキャリアプランなんて、私には立てられない。

 

 

モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

 

 

 

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)