ポストモダンと散歩中

長くなりがち。

話題の「欠損女子バー」記事によせて

wotopi.jp

 

新宿ゴールデン街の期間限定コンセプト・バー「ブッシュドノエル」が注目を集めています。ブッシュドノエルのバーテンダーは「欠損女子」と記事内で呼ばれる、手足の欠損を持つ若い女性たちです。この記事は大きな反響をよんでおり、この文章を書いている現時点ではてなブックマーク数は700を超え、私の目に入るだけでも複数のブログやオンラインメディアで扱われています。

 

この記事を読んで、発達障害者やLGBTアイデンティティポリティクスの流れに似たものを感じました。そこで、本エントリーでは、「ブッシュドノエル」の試みとその受けとられ方を、良いか悪いかではなく、できるだけ相対化して理解したいと思います。アイデンティティポリティクスの観点から、「欠損女子」がどのような存在として描かれ、どのような社会グループにカテゴライズされているかを焦点に書いていきます。

 

前提として、アイデンティティポリティクスとは何か。

この語は広い対象をカバーするのですが、ものすごく簡単に言えば、社会の中の特定の属性を自認する人々の、自分たちの立場や利益を主眼とした政治的活動のことです。ここでいう政治とは、権力闘争のことを指します。

関西学院大学の金明秀先生がTwitterで説明されていたのがわかりやすいと思いますので、興味のある方はご参照ください。

togetter.com

 

まず、対象記事のタイトルを見てみましょう。

『義手・義足の"欠損女子"に会えるバーに潜入 障害は「かわいい・かっこいい」』

非常にインパクトのあるタイトルだと思います。「欠損女子」という語だけでも、たくさんの情報を背後に抱えています。「〜女子」「〜男子」という表現は、近年、二項対立的な男女のカテゴリーの中で、対象となる人々に特徴や属性のラベリングをすることで、対象グループの行動や思考の共通性を見いだそうとする試みとして広く使われるようになりました。つまり、「欠損女子」が意味しているところは、「四肢の欠損を持った」「女性」というだけではなく、彼女らがなにかアイデンティティ、行動、思考などにおいて共通性を持っているという誤解を生み、結果としてこの記事には含まれていない対象者を勝手に代弁してしまうことにつながりかねません。

また、「欠損」という言葉は、「欠損のない」つまり「完全体」であるところの健常者の存在に対しての認識を反映したものです。医学用語でもあり、記事の中では当事者の方も違和感を感じておられないようですが、「欠損」という語が手足の一部または全部を持たない人が「異なる人」ではなく「不足している人」という概念レベルでの認識を表象している以上、他の語を選択しても良かったのではないかなあと思います。

タイトルの前半では「欠損女子」という特定の人々を扱っていたはずなのに、後半ではいきなり話が「障害」という大きなくくりになっています。障害とされるものは本当に多種多様で程度も様々です。「欠損女子」はすべての障害者の代表ではないし、彼女らの体験・障害に対する考え方は一般化されるべきものではないはずですが、障害者が健常者と二項対立になっている以上、健常者でない人は全て障害者であり、一つのカテゴリにまとめられるという、長年指摘され続けてきた構造は健在です。

この構造にのっかって、障害は「かわいい・かっこいい」という、障害者全体のイメージアップを狙ったコピーに、私は発達障害の語られ方に平行するものを読み取りました。発達障害者の中には、非凡な発想や特定分野の才能に優れた人がおり、その人たちの能力は非定型発達の産物として語られます。これを発達障害者全体の社会的地位の向上に繋げようとする、「発達障害者は天才である(だから尊重されなければならない)」に準じた言説は、それまでの社会の邪魔者としての発達障害者像へのアンチテーゼであり、権力闘争のストラテジーでした。これは諸刃の剣で、高い能力を持たない発達障害者はこの言説によって切り捨てられてしまうのです。

各個人がかわいい・かっこいいというのでなく、障害自体をかわいい・かっこいいと論じることには無理があります。発達障害者のなかにも幅広い個体差があり、発達障害と天才はイコールではないように、障害イコールかわいい・かっこいいではありません。しかし、発達障害イコール天才の言説が、当事者にとってある種のエンパワメントであったように、障害イコールかわいい・かっこいいがエンパワメントとして作用していることは重要だと思います。一方、かわいい・かっこいいという、障害者への認識の転換をもとめる主張の裏には、かわいい・かっこいいから社会包括すべきという健常者の価値観による恣意的な選別に訴えかけるロジックが存在しています。じゃあかわいくない・かっこよくない(とされる)障害はどうなのか。知的障害精神障害、もっといえば盲・聾・唖や顔貌が著しく損なわれるような、一般的に「かわいい・かっこいい」の切り口で判断されない障害は?

 

ここからは、記事内の表現を見ていきます。

雑誌に出ていてもおかしくないような容姿の良い若い女性の写真が何枚か続きます。かわいくて話題になっているのは彼女たちであって、これがかわいくない中年のおじさんであったら同じくらい話題になるでしょうか。先日、一ノ瀬文香さんと杉森茜さんが同性婚を行った際、彼女らが大変な美形であったことが、同性婚のイメージの向上に貢献したことは事実ですが、同性愛者の中には特に美形ではない容姿の人の方が多いのです。美形同士が同性婚の象徴とされてしまった場合、美形ではない同性愛者にはある意味生きづらさが生まれます。

この記事の序盤は彼女たちの愛らしさ、美しさに焦点が当てられています。先述した通り、障害者の社会的地位向上を「美しさ」という切り口から攻めていくのは、効果的であり、危険でもあります。

 

バーテンダーを勤める琴音さんの、欠損フェチに対してのコメントが興味深いです。

最初に『欠損の写真を撮ってる』と連絡があったときは、『え!? そんなジャンルがあるの!?』と驚きました。で、モデルになってイベントとかに出しても らうと、ファンの方もたくさんいることを知りました。正直に『いやらしい目で見てもいいですか?』と聞かれたこともありますよ。でも、ひとつの萌え要素と してそう思ってくれているんだから、全然平気。何をそういう目で見るかは個人の自由ですし。そもそも、欠損している私を認めてくださっていること自体が、 嬉しいんです。

 琴音さんは、欠損フェチの消費の対象になっていることを理解し、受け入れています。正直、私が『いやらしい目で見てもいいですか?』と言われたとしたら、嫌悪感でいっぱいになると思うし、このコメントを読んでいるだけでも背筋がぞわっとしました。グラビアアイドルやAV女優のイベントでこのような発言をする人がいるのは知っていた。しかし、素人の写真撮影のイベントで「あなたを性的消費の対象にしてもよいですか」と同義の言葉を被写体女性に投げかける、そのおそらく無意識である暴力の行使を「ひとつの萌え要素と してそう思ってくれているんだから、全然平気。」と受け入れてしまう琴音さんは、強いのでしょうか、それともこういった権力関係を内在化してしまっているのでしょうか。「何をそういう(性的な)目で見るかは個人の自由ですし。」というのと、その性的な視点を向けられることを対象に要請するするのは全く別のことです。

「そもそも、欠損している私を認めてくださっていること自体が、 嬉しいんです。」という発言に、「欠損しているにも関わらず認められること」が彼女にとって重要であることが見てとれます。これは、障害者と健常者の関係を象徴しているとも言えます。障害者は健常者に認められる必要があるという権力関係です。

似た認識は、幸子さんの発言の中からも読み取れます。

sgutsさんに声をかけられ、はじめて映像の中で本来の自分を出し、そういうのがいいと言ってくれる人がいたってことにびっくり。喜んでくれる人がいるから、私って義足で良かったのかなって

 喜んでくれる人がいるから義足で良かったというのは、自分が義足であることの価値を「喜んでくれる人」という外在的なものに求めていることでもあります。幸子さんも琴音さんも、もちろんこのような一元的な考え方をしているわけではないだろうとは思います。ただ、この記事の中で、こういった発言が特に拾われ、彼女らのアイデンティティに帰属させられているということ自体には記事の執筆者の障害者への視点を反映しているという意味があります。

 

記事の前半では手足の欠損というユニークなアイデンティティを強調しつつ、記事の後半では障害者と健常者の同一性が語られます。琴音さん曰く、

面と向かって言う人がいるんですよ、『かわいそう』って。『何がかわいそうなの?』と聞くと、『手がないから。不便でしょ?』って。いやいや、健常者のあ なたでも、不便でできないことはあるでしょう?『あなたが出来ないことを私ができることもあるし、お互い様じゃない』って言い返しちゃう。

 しかし、ここでも障害者と健常者の二項対立に基づく認識は現れます。

「会社に障害者枠があって何人か働いているけど、どう接していいか分からないから、無難な距離を取っている」と言う、男性客Bさんが言います。

「そう思っていても、『不謹慎なのでは?』と、どこまで言っていいのかわからないんだよね。

この障害者枠の人々がみんな同じ障害を持っているとは考えにくいし、おそらく手足の欠損を持った人が全員でもないでしょう。けれど、この男性は「障害者」である幸子さんと琴音さんに相談し、幸子さんと琴音さんも「障害者」として答えるのです。この男性にとっては障害者は障害者であり差異のある個人ではないのです。彼の、「どう接していいか」という質問の正解はその障害者枠で働く人本人に聞くしかないのですが、幸子さんと琴音さんとその同僚が、「障害者」というアイデンティティを持っているため、幸子さんと琴音さんが正解を持っているように誤認してしまうのです。

記事は以下のように結ばれます。

帰り際、男性客Bさんが筆者にこっそり打ち明けました。

「実は僕、欠損フェチでもなんでもない、ただの好奇心で来たんですよ。でも、来てよかった。会社の障害者の人たちとも、前よりは普通に喋れるかも」

この男性の発言が、アイデンティティポリティクスのダイナミクスをよく象徴しているように思います。この記事内の「欠損女子」はより大きなくくりの「障害者」というアイデンティティを動員して社会的な認知と地位向上に臨みます。一方、健常者という権力者はそのアイデンティティの一端に触れ、理解を促されますが、このプロセスで「障害者」というくくりの固定が強化され、「障害者」のグループの中の多様性は見過ごされやすくなります。

 

個人的には

この記事は「障害者問題」というより個人の生き方の多様性という観点から書いて欲しかったです。障害をもっている・いないに関わらず、各個人が自分の存在意義を外在的な承認ではなく内在的な自信によって確信できてほしい、と思います。誤解して欲しくないのですが、私は、この記事の内容も、バー・ブッシュドノエルのことも、そこで働く女性も、記事の視点も非難しているわけではなく、この記事から私がどのようなことを読み取ったかをいうことを書いています。こんな視点もあるのか、くらいに思って読んでもらえると嬉しいです。

また長くなってしまった...。

 

 

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