ポストモダンと散歩中

長くなりがち。

私はきっと結婚できない、あるいは、人が嫌いなのかもしれないという話

私はきっと結婚できないな、と時々思う。

 

結婚したいかと聞かれると、その時その時で違う。猛烈に誰かと一緒に老いていく関係性を欲していることもあれば、一人が私に一番合っているのだわ、と思うこともある。でも、どちらかというと結婚したいのだと思う。

 

祖父母の時代と違い、現代では結婚は人生の選択肢の一つであり、ほとんどの場合相手も自分で調達しなければならない。ということは、自分の意志と相手の意志が合致して初めて結婚が可能になるのだ。この時点で気が遠くなりそうなほど難易度が高い。

 

私は自分が誰かと平和に暮らしているところが想像できない。私は神経質で、ずぼらで、ストレスに弱く、すぐ体調を崩し、理屈っぽく、他者に心を許さない。私が他人だったら私と結婚したくないと思う。

 

私は他人に厳しい。過去に付き合った人たちも、どうしても追いつめてしまって別れた。私は過剰なほど自分をモニターする癖があり、相手にも同様の自己批判的な態度を求めてしまった。彼らは明るく、人気者で、善人だった。私は彼らのようになりたいと思った。けれど、時間が経つにつれ、私の目には彼らが鈍感で独善的で自己満足に満ちた存在に思えて、一緒にいるのが耐えられなくなった。自信を持って「自分は善人だ」と言える、確固としたモラルの軸をもっているのがうらやましくて、同時にその軸を疑ってみようとも思わない彼らに嫌悪感を持った。

 

歳を重ねて、私のような人間は少数派で、多くの人はこういった自己批判の精神の有無は問題にしないのだと悟った。私も幼稚な完璧主義からすこしだけ抜け出し、善人を受け入れるようになった。しかし、ずっと一緒にいる人が善人であるというのはきっといらいらするし、善人の方も自分の善性を疑われるのは嫌だろう。

 

私は今でも考えすぎる。人文社会系の学問をかじるようになり、「当たり前」を疑う姿勢が以前に増して内在化されてしまったことはこの傾向に拍車をかけた。特に、身の回りの権力の存在に非常に敏感になり、自分の身に納得のいかない権力の行使が起こった時に耐えられなくなった。人文社会系の研究をしている人のほとんどがこんな状態に陥っているとは思わない。むしろ、日常生活で思考パターンのスイッチを切り替えられない私はおそらく職業学者には向いていなかった。おそらく、世の中のほとんどの人は私のように神経症的にものごとを突き詰めて考えない。そして、彼らの方がずっと幸せそうに暮らしている。私は、勝手に他人に期待して、勝手に失望し、勝手に傷つく。

 

最近、フェミニズムについて、早稲田大学森岡正博先生が書かれたエッセイを読んだ。

書かれなかったジェンダー論:セクハラ、フェミニズム、男性学、ウーマン・リブ

20年近くも前に書かれたエッセイにも関わらず、今読んでも全く古さを感じないというのは本当に先見の明があったのだろう。ジェンダーへの向き合い方について、自身の言葉による内省が綴られているのを読んで、共感したし、こういう人を人生の伴侶に持てたら良いだろうなと思った。

 

こういったレベルで自分を分析できる人に、私は残念ながらあまり会ったことがない。学問的なベースの話なのか、知性の話なのかはわからない。これまで会った中では女性の方が多かったように思う。男性がこのような内省をするメリットはあまりないからかもしれない。また、何らかの障害を持っていたり、民族的、人種的マイノリティーのような社会的弱者の方が鋭い視点を持っていたことが多かったが、これも同様にマイノリティーの方が自分のアイデンティティについて考える機会が必然的に多いからだと思う。

 

話がそれたので、戻す。

いつも小難しい話ばかりしているわけじゃないので、結婚相手にここまでの自己分析を求めなくてもいいのかもしれない。正直、似たような感性を持った男性と恋愛関係にあったことがないので、分からない。考えすぎない男性と同様に、考えすぎる男性も鼻につくのかもしれない。私はただの人嫌いなのかもしれない。一緒にいて心安らぐ人なんて現れないのかもしれない。

 

ここまでつらつらと書いたのを読み返して、まとまりのなさにびっくりした。

 

まあ、言いたいことは、私はきっと結婚できないってことです。