ポストモダンと散歩中

長くなりがち。

Flowers for Algernon: アルジャーノンに花束を読んで

[作品の核心に触れる記述があります]

 

日本では今年ドラマにもなった「アルジャーノンに花束を」を、私が初めて読んだのは中学生のころだったと思います。多分、この日本語訳版を読んだのではなかったかと記憶しています。

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

 

図書館でたまたま見つけた「24人のビリー・ミリガン」が面白かったので、ダニエル・キイスの他の著作も読もうとして出会ったのが本作でした。10代までの私の読書は、感情移入よりも知的好奇心やプロットの消費が中心で、じっくり内容を味わうのではなく、次々にページを繰り、「読む」こと自体 を楽しんでいた部分がありました。「アルジャーノンに花束を」も、私にとっては、そのSF作品としての設定とプロットの面白さが印象に残った作品でした。

アルジャーノンに花束を」は原題をFlowers for Algernonといい、1959年に短編小説として文芸雑誌に発表されました。その後、1966年に長編として書き直されたものが発表され、日本語訳され一般に読まれているのはこちらのほうです。短編の方は原文がオンラインで読めるので、いつか読もう読もうと思っていたのですが、昨日ようやく読みました。読みながら、すごく泣きました。もう、自分でもびっくりするくらい。こんなに素晴らしい作品だったのですね。

アルジャーノンに花束を」は、SFに分類されます。チャーリー・ゴードンという、IQ68程度の精神遅滞のある青年が、知能を向上させる実験的手術を受け頭が良くなっていくという設定です。作品は、最初から最後までチャーリーの綴る被験者としての経過報告のみで構成されています。この経過報告を通してチャーリーの知能程度の推移を表現するというアイデアとテクニックは天才的です。最初の方の報告はごく単純な語彙と構文で綴られ、スペルミスや語の誤用があふれているのだけれど、チャーリーが賢くなるにつれ、段階的に語彙が増え、複雑な文の構造を用いるようになり、文章が洗練されていきます。同時に、チャーリーの自身をとりまく世界へのまなざしにも変化が現れます。一元的なものの見方をしていたチャーリーが、より複雑な視点を通して世界を理解していく様子が一人称の記述で間接的に表現されており、ダニエル・キイスの見事なテクニックに敬服させられます。

私が泣いてしまったのは、知らず知らずのうちにチャーリーに自分を重ね合わせていたからです。チャーリーは、「賢くなりたい」という切実な願いを持っていますが、これは「他の人と同じ」であることへの憧れです。自分にはできないことが他の人には当たり前にできる。自分も「他の人」のようになりたい。この身を切るような強い憧れは、チャーリーと背景は違いますが、私も自分の中に持っているものです。実際には人はそれぞれなので、「他の人」なんていう人はいないのですが、単純な心にとっては自分以外の人は「普通の人」という一般化された存在であり、自分は普通になれない落伍者なのです。

チャーリーが少し賢くなったころ、彼は今まで親友だと信じていた同僚が実は自分を馬鹿にし、いじめていたことに気付きます。それまでは見えなかった物事が、自分の周囲を把握する能力が身に付いたことで見えるようになったのです。世界が善意でできているという信頼は、成長によって裏切られ、柔らかい心は深く傷つきます。しかし、当初はこの気づきをうまく表現できなかったチャーリーの知能が向上すると、彼は悲しみや怒りを適切に言語化できるようになります。また、さらに知能が向上すると、今まで神のように崇めていた周囲の人々が、自分が思っていたほど賢くなかったことに気づき、チャーリーは騙されていたような気持ちになり憤慨しますが、しばらくすると状況を客観的に分析し、自分の中で相対化し処理できるようになります。

あるとき、チャーリーは過去の自分のように精神遅滞を持った少年が馬鹿にされている場面に遭遇します。少年は自分が周囲に馬鹿にされていることに気づいておらず、チャーリーはその少年に軽蔑に近い気持ちを持ちますが、その傲慢さを自覚した時、自分の発達した知性を他の人のために役立てようという使命感を抱きます。この自己批判を伴う内省こそが知性の象徴として描かれているように思います。チャーリーの急激な知能の向上は、感情面での成長より先に起こってしまうため、その過程で起こる葛藤がチャーリーを苦しめますが、自分の立ち位置を自覚的に理解したこの時点こそが、知性と感情的成熟のバランスがとれた象徴的なシーンだと私は感じました。何も知らなかった頃のチャーリーの純粋な善意と、悪意と欺瞞の存在を理解したうえでの利他性は、同じ優しさであっても全く質の違うものです。

このチャーリーの一連の成長を、私は自分自身の成長過程に重ねて読み取っていました。私自身、感情と知性の発達がちぐはぐで苦しみました。他者への過剰な期待と失望や、自分の身の回りへの知覚の遅れ、知覚したときの羞恥心などは、チャーリーが記述する感覚に近いです。私はかなり知能指数が高いのですが、周囲の人と自分の見ているものが違うことを感じることがあり、チャーリーが体験する、身近な人と分かり合えない孤独感なども胸に迫るものがあります。

実験はうまくいっていたように思えましたが、チャーリーの知的能力の向上は一時的なものでした。チャーリーは、徐々に知性を失い始めます。彼がこのことに対し完全に自覚的であることが悲劇的です。最終的に、彼は自分が賢かった時に書いたものも読めなくなり、初期の頃の知的程度に戻ります。作中ではチャーリーの死は描かれていませんが、同じ手術をチャーリーより先に受けたアルジャーノンが死んでしまうことによって、チャーリーも近いうちに死を迎えることが示唆されています。作品の最後で、チャーリーはどこか遠いところで暮らすことを決め、実験に関わった人々に、機会があればアルジャーノンの墓に花を供えてくれと頼みます。

作品の終盤では、作品の文学性に感動してまた涙しました。チャーリーは元の知能に戻り、複雑な思考はできなくなりますが、彼の純粋な優しさと善意を信じる心も戻ってきます。チャーリーは、知性の両極端を体験しましたが、どちらの状態においても彼は他者を愛し、美しい人間でした。知性とは人を幸せにするのかという問いが鋭く描かれています。私は、ダニエル・キイスという人は自分の知性に苦しんだ人なのではないかと感じました。昨年惜しくも亡くなってしまいましたが、彼がこの作品を書いてくれたおかげで私のように救われた人はたくさんいたことでしょう。もちろん、私とは違う本作の読み方は数多くあると思いますが。

 

中学生のころには理解できなかった本作の素晴らしさが、大人になった今分かりました。むしろ、この作品は大人にならないと響かないのではないでしょうか。 読み返して本当によかったです。また10年くらいして読み返したら「あのときは何も分かってなかった」とか思うのかもしれませんが。

 

 

アルジャーノンに花束を―原書で愉しむ

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